第3弾【政治の闇】田村琢実県議の核心へ迫る

排除の制度化とは何か

議会とは、意見の対立を前提に成り立つ場である。

だが、今、埼玉県議会には“対立”も“異論”も存在しないように見える──いや、正確には「異論が制度の中で生まれない構造が完成しつつある」と言うべきかもしれない。

第1弾では、田村琢実キーム──政務活動費、印刷費、共通経費の帳簿処理により、形式的合法性を装った利得構造──を明らかにした。

だが最終章となる本稿では、制度や資金を超えて、“空気そのもの”が支配されている実態に焦点を当てる。

すなわち、議会という制度空間が、いつしか「異論を排除する構造そのもの」へと変質してしまったプロセスである。

除名された議員、語ることをやめた議員、報じることを控えるメディア、そして反応しなくなった市民── そのすべてが、制度が生み出した“沈黙”という無形の構造に包摂されている。

これは、議会の問題であると同時に、社会の構造的問題でもある。 異議申し立ての権利が制度の内側から消えていくとき、民主主義は名目だけを残して死んでいく。

本稿では、排除の制度化がいかに行われたかを構造的に読み解き、沈黙を強いられた政治空間の輪郭を照らし出す。

“反対”は存在できない構造

2023年、埼玉県議会では「留守番禁止条例」をめぐって議論が巻き起こった。

この条例案に対し、会派内外から慎重論が上がっていたにもかかわらず、正式な会派手続きに則ることなく提出が進められた。

最終的には世論の強い反発を受けて撤回されたが、内部で異を唱えたとされる議員に対して“見えない制裁”が始まっていた。

その象徴的事例が、2025年1月の高木功介県議(仮名)の会派除名である。

県議団は「政務活動費の不適切使用」を理由としているが、当該議員は会見にて「実際には、会派執行部への政策的異論が背景にある」と述べた。

取材でも、彼が条例内容や会派運営方針に異議を唱えていた事実が複数の関係者から裏付けられている

このような「異論への対価」は除名に限らない。

ある議員は、会派内で政策判断に異議を唱えた直後から、議会質問の登壇回数が激減し、委員会人事から外され、政策協議の場に呼ばれなくなったという。

制度的にはいずれも「会派の裁量」で処理されるため、外形的な問題は一切残らない。

だが実態は、制度を用いた懲罰に他ならない。

この構造の恐ろしさは、制度が“沈黙を強いるための道具”に変質している点にある。

反対意見があっても口に出せば排除され、排除されれば質問もできず、予算も確保されず、地域への責任も果たせなくなる。

こうして異論は“制度の中で存在できなくなる”。

制度とは、民主主義を保証するための枠組みであるべきはずだ。だが今や、それが異論排除の正当化装置として機能してしまっている。

メディアと沈黙の共犯関係

異論が制度内から排除されるだけでなく、それを外から照らす役割を担うべきメディアまでもが、田村体制の支配構造と“共振”するように沈黙している。

田村県議に関しては、ここ数年で不倫スキャンダル、公用車問題、政務活動費の還流疑惑など多くの報道価値を持つ事案が発生しているが、地元メディア──特に埼玉県域をカバーする地方紙やテレビ局──の多くはこれらを大きく取り上げていない。

報道の傾向として、批判的な視点」は影を潜め、「制度改革への期待」や「子育て政策の先進性「」といった肯定的報道が頻繁に繰り返される。

たとえば、2023年に報じられた「留守番禁止条例」騒動では、条例案の内容や世論の反発についてはネットメディアが詳細に伝えたものの、地元新聞ではわずかな言及にとどまった。

加えて、同時期に文春で報道された不倫疑惑や、政務活動費の支出に関する調査報道についても、埼玉県内の主要メディアでは「県議会事務局は問題なしと見解」とする行政コメントの引用報道が主であった。

なぜ、これほどまでに“報じない”のか──

背景には、県議会および県庁との「情報バーター」構造があるとされる。

記者クラブの存在、公的情報の優先的提供、広報紙の折込契約や報道番組内でのイベント告知枠の提供など、行政と報道との間にある経済的・制度的関係が、報道姿勢に影響を与えている可能性がある。

また、田村県議が主導する政策(子育て支援、防災、地域開発など)に対しては、県の予算執行における広告的支出(広報活動、政策PR)がなされており、これが報道機関への間接的な“圧力”となって機能しているとの指摘もある。

制度内の異論を可視化できないメディア、そして制度外からの批判もまた抑制される空間── この“二重の沈黙”は、支配構造に対する社会的検証機能を事実上喪失させている。

反対派不在の均質化された政治空間

埼玉県議会の議場において、議論はある。質疑も形式的には交わされる。だがその実態は、“異論なき予定調和”である。

2024年度の予算審議では、修正動議が一件も提出されなかった。全会一致に近い議決が次々と行われ、賛成・反対の分裂構造は影を潜めた。

一見すると「まとまりが良い」ように見えるこの現象の内側に、異論があらかじめ排除された結果としての“均質な議会”が存在している。

実際に、反対意見を述べる議員は極端に少なくなっている。会派内で異論を唱えれば登壇の機会を失い、委員会ポストから外され、会派内の政策協議からも事実上排除される──このような空気が共有されている中で、議員たちは「沈黙こそが最も賢明な選択肢」と学習していく。

議員自身が「言わない方が得だ」と感じる空間。制度上は自由な発言が保障されているにもかかわらず、実態は“無言の秩序”が蔓延している──この状況こそが「制度と空気の合流点」である。

民主主義における議会とは、価値観の対立や地域の多様な声を持ち寄る場であるべきだ。

しかし、埼玉県議会は今、その役割を果たせていない。「発言するリスク」が制度と慣習の両方から高まり続けるなかで、議会は機能的にも象徴的にも“空洞化”している。

このような議会は、もはや「意思決定の場」ではない。それは、支配の正当性を演出するための“合意装置”と化している。


投票率と責任の空白

埼玉県議会の制度支配と議会空洞化を支えているのは、制度だけではない。

それを許容している市民社会の“関心の欠如”こそが、もう一つの根深い問題である。

2023年に実施された埼玉県議会議員選挙の投票率は、わずか33.9%。有権者の3人に2人が「投票しない」という判断を下した。

この数字が示すのは、田村体制のような支配構造に対して、市民が「無関心という名の沈黙」で加担している現実である。

投票という行為は、政治に対する最大の“参加権”であると同時に、統治の正統性を支える唯一の根拠でもある。

だが、その機会を自ら手放すことで、議会における支配構造が制度的に固定化されても、それに“歯止め”をかける力が働かなくなる。

田村体制が「制度を通じて支配し続けられる」のは、反対勢力が議会内で機能しないからだけではない。

制度外の“社会的チェック機能”──つまり、有権者の意思表示・市民の声・報道の関心──がすべて沈黙しているからである。

情報公開請求の件数も減少傾向にあり、県議会の質疑応答がオンライン上で話題になることも稀だ。

一方で、報道されるのは政策PRや予算案の成立速報ばかり──対立や異論の存在が公共空間から消えていくなかで、政治は「誰のものでもない状態」に向かっていく。

こうして制度が支配を可能にし、市民が無関心で沈黙し、報道が共振して沈黙すれば、地方自治はもはや“空洞の民主主義”に過ぎない。

市民が揺さぶる構造

田村体制を通じて明らかになったのは、単なる“悪しき個人”ではない。

制度が許容し、市民が無関心である限り、誰が権力を握っても再現され得る“構造的支配”である。

異論が制度から締め出され、メディアが報じず、市民が投票を放棄すれば、政治空間は“空洞の秩序”として安定する。

だが、その安定は“自治”の死と引き換えに成立するものだ。

ここで問われているのは、議会改革でも制度改正でもない。我々が「政治を誰のものと認識するか」という根本的な態度である。

議会に任せきりにする時代は終わった。市民が“監視者”から“参加者”へと移行しなければ、何も変わらない。

制度は問い直されるべきである。沈黙の中で合意される“予定調和”に異を唱えるためには、まず自分の違和感に正直でなければならない。

周囲の空気ではなく、自らの言葉で語り、自らの投票で示す。その営みの積み重ねこそが、“自治”という言葉の意味を回復する。

声を上げるのは議員ではない──私たち自身である。

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